『村上龍 vol.3 men's JOKER 11月号より』
「すべての男は消耗品である」9/9 2009
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しかし、最近わたしはびっくりした、「サイゼリア」というファミレスである。ファミレスにはほとんど行かなくなったが、「カンブリア宮殿」というわたしがインタビュアーをつとめるテレビ番組のゲストに「サイゼリア」の会長が出演することになって、取材がてら食べに行ったのだった。
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そう言えば、02年のW杯で来日したイタリア人サッカー記者たちが毎晩サイゼリアに通っているという噂があった。こんなに安くてちゃんとしたパスタやビザはイタリアにもないと彼らはいっていたらしい。やがてイタリア人だけではなく、ヨーロッパのサッカー記者たちは大挙してサイゼリアに通うようになったそうだが、彼らは「非常に安くておいしいイタリアンのチェーン店がある」という記事を絶対に書かなかった。物価が高いという理由で本社からもらっている「日本滞在特別手当」が打ち切られてしまうからだ。
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現在、非製造業の勝ち組は、マクドナルド、アパレルのユニクロ、靴のABCマート、家具のニトリ、ヤマダ電機など、数えるほどしかない。いずれも、品質の悪さを安さでカバーするというようなコンセプトからはとっくの昔に決別した商品を世に送り出している。ユニクロの服を着て、ABCマートで買ったスニーカーを履き、ニトリの家具のあるアパートに住んで、マクドナルドやサイゼリアで食事をし、ヤマダ電機で買った薄型テレビとパソコンで遊ぶ、そういった生活はおそらくわたしが学生のころよりも数百倍快適だろう。
だが、何かが失われるような気もする。それが、失われてもいいものなのか、それとも失われるとやばいものなのか、それはまだわからない。
村上龍 vol.3 men's JOKER 11月号
学生時代に読んだことのある村上龍の「すべての男は消耗品である」は、今でも連載が続いていたんだなー、と軽くノスタルジックな気分になった。
村上龍の中でこの作品は、「すべての男は消耗品である」はどちらかというと、エッセイのようなものなので、結論があったり論理的な根拠があったりとか、そう言う類の文章ではなくて、思いついたことに対して書いて要は毎号「オチ」があればいいのだろうけど、今回のメンズジョーカーの記事のオチの部分は、やはり読んでどきりとした。
今日は、ニュースで「ヨウジヤマモト経営破綻」のニュースが流れたばかりで、旧態依然のコレクションブランドのファッションのあり方そのものが、「とっくの昔に決別」すべきものだと宣言されたという、象徴的な日だ。そんな気分の日に上の文を読んで、筆者のように「何かが失われるような気もする。それが、失われてもいいものなのか、それとも失われるとやばいものなのか、それはまだわからない。」という、僕も同じような気分になった。ぼくも、結論も出ないままに、しかしこのままではやばい、やばいがそれがなんなのか、わからない、そんな焦燥。
最後の、ユニクロの服を着て〜からの「ライフスタイル」についての考察は、これもほんとに考えさせられた。ぼくもユニクロのパーカーや靴下は買うし、最近パリで買ったspringcourtも、ABCマートでも手に入る。家族はニトリでお風呂マットを買ってるし、マクドナルドもよく行く(サイゼリアは行ったことない)、一眼レフカメラやMacはヤマダ電機で買った。ふだん仕事ではハイブランドを扱っている僕も、私生活では、つまりここでいう、まさに現代のライフスタイルの典型の範疇に含まれている。
ユニクロ、ABCマート、ニトリ、ヤマダ電機、マクドナルド、サイゼリア。
たぶん、生活に使えるお金がふんだんにあって、普通の商品では満足できない人ならば、あるいはもっと違う選択肢もあるのだろう。また、一度もこれらの勝ち組企業を使ったことがない人ならば、ずっと使わずにいる生活が出来るかもしれないが、一度でも利用してその便利さを体験してしまうと、人間は不便さに逆戻りはできないから、今の生活環境で、自然と選択肢に含まれてしまう。
僕が思うに、これらの企業は、勝ち組を狙って初めからいまのポジションにいるのではないと思う。どの企業も、金融危機のずっと以前からある企業ばかりだ。サービスが本物だったから、時代があとから追い風となってついてきたといえる、逆に言うと、何か時代が変われば、それらの企業ですら「とっくの昔に決別」すべき側になる場合もありうる。
その頃は、何か大きなものが失われたあとの時代だろう。
今日のヨウジヤマモトがそうであるように。
タグ:ヨウジヤマモト経営破綻





















